東京地方裁判所 昭和38年(合わ)40号 判決 1963年12月20日
被告人 伊豫久治
大九・八・二八生 大工
主文
被告人を死刑に処する。
理由
(被告人と略歴と本件犯行に至るまでの経緯)
被告人は本籍地の銚子市で生れたが、実父母の名は現在も知らないものであつて、生後まもなく伊予なつの貰い子となり、戸籍上は右なつとその夫運治の二男として届け出られ、同女とその父三治郎の手で養育され、貧困のうちに成長し、小学校の課程は同市東尋寺小学校でこれを終えた。その後、同地の鉄工所で年期奉公をしていたが、面白くないので二年位いて一八才の頃そこを飛び出して上京し、大工見習、自動車の助手などをしているうちに、空巣を働き窃盗罪により二度処罰され服役した。次いで、昭和一六年現役で軍隊に入り、翌一七年満州で服務中、逃亡を企て上官に発見され、これに向けて発砲したため上官殺人未遂罪により軍法会議で無期懲役に処せられ、同地で受刑中終戦となり同二一年帰国した。そうして、一旦郷里に戻つたものの、戦災により右なつ等の家族は死亡し、その家もなく、親類からは、無期の刑に処せられた者が帰つてくるわけがないというような事をいわれ冷遇されたので居たたまれず上京し、徒食している間に空巣を働いたため同二二年東京地方裁判所で窃盗罪により懲役一年六月に処せられ、その刑の執行中、先に無期懲役に処せられている事実が発覚したため、合わせて右刑の執行を受けていたが、右刑はその後講和恩赦により懲役二〇年に減刑され、更に同三二年国連加盟の恩赦により特にその執行を免除されたので、その頃千葉刑務所を出所した。その後は流浪の生活を送り、東京都内、熱海、横浜、名古屋などの各地を転々とし、建築工事現場等において、大工として働いていたものである。ところで、被告人は同三六年一二月頃、東京都台東区国電御徒町駅で、同二六・七年頃千葉刑務所で服役中同囚として知り合つた宮田順三に奇遇し、爾来身寄りのない寂しさから同都目黒区下目黒三丁目五二六番地大島荘一号室の宮田方をしばしば訪問する様になり、同人の妻栄子やその子供達とも知り合つた。被告人は宮田方を訪れるたび毎に、土産物を持参したり、その家庭が困つているのを知つて気前よく金を与えたり、子供達に物を買い与え、或いは遊びに連れて行くなどして徐々に宮田の家族と親しさを増して行つたが、同三七年春頃から順三の不在に乗じ栄子と道ならぬ関係を結ぶに至り同女に対し順三と別れて被告人と結婚するように仄めかしたこともあつた。しかし、同女は夫順三に愛情をもつており、同人から被告人との右関係を疑われるのを憂えると共に世間態も考え、被告人の来訪に対し次第に困惑しはじめていた矢先、同年一一月頃被告人が名古屋に赴いたのを機会に右関係は一時杜絶した。
(罪となるべき事実)
第一、被告人は名古屋で建築工事の日雇大工として働いていたが、翌三八年一月一三日頃俄かに東京が恋しくなつたので仕事先を無断でやめ、同僚のオーバー、腕時計などを持ち出しこれらを処分して上京の費用等を作つたうえ東上し、同月一五日横浜の、翌一六日川崎の各簡易旅館に一泊して仕事先を探した。翌一七日午前八時頃右川崎の旅館を出て朝食をとり、酒を四五本飲んだ後、右宮田栄子(当時二九才)と情交するつもりで、その夫順三の不在を見計らい、同日午前一〇時過ぎ頃、前記宮田方を訪れた。折柄順三は勤めに出かけて不在であり、被告人は同人方六畳の居室で電気炬燵に入り、栄子に買わせたビール、南京豆を飲食しながら情交の機会を窺つていたが、同女はいつになく冷たい態度を示し、子供が幼稚園に入るので費用がかかるなどと暗に被告人の援助を求めるような口の利き方をして正月早々金の話を持ち出したので、被告人は不快な気持に襲われた。そのうちに同女の長男誠一(当時五才)及び二男洋二(当時一才四ヶ月)が鉛筆等で入口の障子に穴をあけて遊び始めたところ、同女はその様子を目撃するや子供達を激しく叱りつけたので、子供好きの被告人は同女に対し子供を叱るなと注意し、そのため被告人は同女と口論したが、虫の居所も悪く、また、酒の酔いも手伝つて、「子供にはもつとやさしくしたらどうだ」といいながら同女の顔面を二・三回殴りつけた。気分を害した被告人は飲みなおすことにして、栄子にビールを買つてくるように頼んだが、同女が返事もしなかつたので、むかついた気分になつていたところ、同日正午過ぎ頃、右誠一等が再び障子に鉛筆で穴をあけ始め、栄子がこれを咎めて一段と酷しく叱りつけ誠一の背中を打つたことから、被告人も再び口を出し同女に注意し、そこで栄子が「私の子供だからどうしようと勝手だ。他人に口を出して貰いたくない。」などといつたので、被告人は今までの同女との関係から「他人とは何事か」と激昂し、先程受けた不快感も加わり、立ち上つて同女の顔面を両手で殴りつけた。これに憤慨した栄子が「殺せるものなら殺してみろ」と挑発的に首を被告人の方に突き出したので、被告人は平素情をかけていた同女からこのような仕方で愚弄されるのは耐え難いと考え、憤激の極に達し、咄嗟に殺意を生じ、「俺がお前をやるのは勝手だ」と言いながら、同女ののどもとに左手を当てると同時に右手を首筋の方に当ててこれを絞め付け、被告人の左側に倒したところ、同女は必死になつてその場を逃げようとし、被告人と揉み合いとなつたが、被告人はなおも両手で絞め続けたため、同女は鼻血を吹き出し失神状態に陥つた。被告人は大変な事をしたと思つたが、同女がここで生き返つたのでは右犯行が発覚するものと思い、同女が身につけていた腰紐(昭和三八年押第四四〇号の一二)をはずし、これを用いて同女の首を結んで強く絞め付け、よつて右扼頸及び絞頸を原因とする窒息により同女を殺害した。
第二、右犯行の間、誠一及び洋二は、「馬鹿、馬鹿、かあちやんをかんべんしてやれ。喧嘩をするなよ」と泣きながら被告人に武者ぶりついてきており、被告人としては栄子を殺害した後、右子供等の処置について一瞬思い迷つたが、このまま母なし子となつては不憫であり、且つ誠一は被告人の顔もよく知つているので犯行が発覚してしまうとも考え、咄嗟に誠一の殺害を決意し、右腕で同児を抱きあげ、左手をその首に当てて強く押し付け、更に、電気炬燵のコード(前同号の七)を首に巻き付けたうえ結んで絞め付け、よつて右扼頸及び絞頸によつて惹き起された窒息により同児を殺害した。
第三、次いで被告人は、同所において、泣きすがる洋二に対し、前同様の事由により殺害を決意し、同児を抱き上げ、その頸部を手で絞め付けたところ、これにより同児が気絶したのを窒息死したものと速断し、これを仰向けに寝かせたままその場を立ち去つたが、その後同児が蘇生したため殺害の目的を遂げなかつた。
第四、被告人は、以上の犯行を終えた直後、自己の着用している背広に血が附着しているのを知り、これを隠すために、同所のタンスから宮田順三所有の冬オーバー一着(時価三、〇〇〇円相当)及び現金約一、二〇〇円を窃取したものである。
(証拠の標目)(略)
(弁護人の主張に対する判断)
弁護人は、被告人が右犯行当時飲酒酩酊のため心神耗弱の状態にあつたと主張する。本件審理の結果によれば、右犯行当日被告人は、午前八時過ぎ頃、川崎で清酒を四・五合飲み、また、宮田方でもビール二本を飲んだこと及び被告人は当日ちよつと飲み過ぎたためかかる大事件を惹起した旨供述していることが認められる。しかしながら、右証拠によると、被告人は近年自己の酒量を弁え度を過ごさないように心懸けているが、もともと酒に強く、曽ては一升酒を飲んだこと、右清酒の飲酒後犯行までは四時間近く経過していること、当審において被告人の精神鑑定を嘱託した医師竹山恒寿の行つた飲酒試験では、清酒五合五勺飲んでも、「異常な形式」の酔とはならず、また翌日その飲酒当時のことをよく記憶していたこと及び被告人は本件犯行についてもその大部分をよく記憶しており、飲酒のため記憶等に障害の来したことは認められないのみならず、犯行後の被告人の行動には背広の血を隠すためにオーバーを盗んだり、犯行発覚を遅らすために電灯を消し、鍵を締める等、一面冷静と思われる行動に出ていることも認められる。これ等の事実を併せ考えると、被告人は本件犯行当時、酒に酔つて、多少抑制力が麻痺していたことはあつたにしても、是非善悪の判断とそれに基づいて行動する能力に影響を及ぼす程深く酔つてはいなかつたものと認められる。よつて弁護人の主張は採用しない。
(法令の適用)
被告人の判示第一、第二の各所為はいずれも刑法一九九条に、判示第三の所為は同法二〇三条、一九九条に、判示第四の所為は同法二三五条にそれぞれ該当するところ、その犯情にかんがみ、判示第一、第三の所為については所定刑中有期懲役刑を、判示第二の所為については所定刑中死刑を選択する。そして以上の各罪は同法四五条前段の併合罪であるが、その一罪につき死刑に処すべきときであるから、同法四六条一項本文により他の刑は科さないこととする。そして訴訟費用については刑事訴訟法一八一条一項但書を適用して被告人にはこれを負担させない。
(量刑の理由)
(イ) 本件犯行は偶発的なものではあるが、ささいなことから一瞬のうちに何ものにも換え難い貴重な二人の人命を奪つたのみか、いま一人の幼児をも殺害しようとしたものであつて、その責任は誠に重いといわなければならない。宮田栄子を殺害した点については、被害者の稍々挑発的な行動が被告人の感情を刺激し本件犯行の一因となつたことも否定しえないところであつて、酌量の余地が絶無とはいえないが、被告人がその犯行に当り「俺がお前をやるのは俺の勝手だ」と高言しているように、同女と情交を結び、金銭的に援助してきたという一事をもつて、恰も同女を私物のように考え、他人の人格を無視して犯行に及んでいることは到底容認できないところであり、その犯行の態様もいたいけない子供達の見ている前で、その母親の首を扼し、次いで生き返らない様にと腰紐で首を絞め、且つその下半身をわざわざ露出して同女をして恥づかしめており、その所為は残酷非道である。そして、更に看過できないことは、何らの罪もなく、また何らの抵抗力もない五才の誠一と一才の洋二の首を順次扼し、殊に誠一に対しては更に電気コードを首に二重に巻き付けてこれを絞め、よつて殺害を遂げていることである。このことは被告人の反社会性、危険性の極めて大きいことを現わすものであつて、被告人のため返す返すも遺憾なことである。そしてこの犯行により一般社会が白昼アパートで行われた母子殺害事件として受けた不安、衝撃は至つて大きいのみならず、この犯行の結果、洋二は母親と兄を奪われ、宮田順三は一朝にして最愛の妻と長男を失い、共にその家庭生活を根底から破かいされていること、特に洋二は一才四月の幼児であり、母親の愛を一番大切とする年代であることなどに思いをいたすとき、被害者の身内の人達の蒙つた打撃もこれまた極めて大なりといわねばならない。
(ロ) 被告人の誠一、洋二に対する犯行の動機の一つが「親なし子として残しておくのは可愛想だから」というにあることは判示事実のとおりであるが、かかる動機は被告人に対する刑事責任をいささかでも減少せしめるものではない。即ち、被告人の育つてきた環境から考えると、被告人がかかる動機を持つに至つた経緯には多少うなづき得るものがないでもないようではあるが、元来このような理由はいついかなる場合においても、尊い人命を奪うことを正当化したり、その行為の道義的非難性を軽減したりする原由にはならないものであるのみならず、本件においては、父の宮田順三は立派に生活していること並びに子供の成長を楽しみに、日夜汗水を流して働いていた同人の被害感情などを考えると、かかる動機による殺人に対して酌量する余地はないものといわなければならない。
(ハ) 被告人の人生は誠に数奇なものであり、同人は実父母の名も知らず、養母に育てられており、その不幸な環境が被告人の犯歴に影響を与え、その犯歴が本件犯行の一因となつたであろうことは推測に難くないところである。即ち、被告人は青年期の殆んどを刑務所で過したため、結婚する機会を失つてしまつたのであり、結婚していれば、本件の様に人妻との不倫な関係を結ぶこともなかつたかもしれず、さすれば本件の如き大事件を惹き起さずにすんだかもしれないのである。そして被告人の犯歴には窃盗が三犯、殺人未遂が一犯あり、殊に後者の罪では無期懲役に処せられており、このことは被告人の性行などを評価するに当り看過できないことである。しかしながら、青年期の殆んどを刑務所生活に費してしまつた被告人が、昭和三二年八月に最後の刑を終えて千葉刑務所を出所した際、もはや再びこの門をくぐるまじと強く決心し、爾来そのための努力を惜しまなかつたことは、その後の各地の建築現場等で真面目に大工として働いていたという事実から窺いうるところである。そして医師竹山恒寿作成の鑑定書によれば、被告人は爆発性、意思薄弱性の精神病質者であり、右竹山医師は、当公判廷において証人として、「それは多分に伝来的、遺伝的要素によるであろう」と述べている。そして被告人が本件犯行殊に宮田栄子等に対する犯行において判示の経過で爆発反応を呈したことは竹山鑑定書でも認めているところであり、その性格異常が本件でもその因をなしていることは言うまでもないことであつて、しかもその性格異常が多分に伝来的、遺伝的なものという点からいえば、これ等のことは被告人に有利な情状であるともいえないこともないが、前記竹山鑑定書によると、これらの性格異常があつても、被告人は右犯行当時是非善悪の弁識やそれに基づいて行動する能力はこれを有しており、これを欠くものではなかつたこと及びこの性格異常も全面的に遺伝的のものばかりとはいい難く、少年期及び青年期の生活態度により改善しうる余地もあつたことが明らかである。そうとすれば、前記の諸事実は被告人のため有利な情状とはいいえても、未だ被告人の刑事責任を大幅に減軽するに足る程の事由とはなりえない。
(ニ) 被告人は犯行の翌日、一月一八日午前六時半頃、熱海の読売新聞社通信部に新聞社を通じ、警視庁に出頭したい旨申し出ており、このことはその数時間後に警視庁係官に伝達され、同日午前十一時過ぎ頃熱海署に新聞記者と共に出頭しているのであるが、当時所轄警察では犯行現場にあつた証拠物件などから既に被告人を容疑者として捜査を開始し、逮捕状も請求の準備中であつたのであるから、右は法律上は「自首」には該当しない。しかしながら、右の如く出頭するに至つた動機について、被告人としては犯行が発覚したものと思い逃亡を断念し、或いは、前後措置を考えるうちに多少功利的になつてきたという事情が一因をなしていないとは否定できないが、一件証拠によると、その主たる動機は、被告人が当初から弁明している様に、「子供の泣き声が耳に残つていて自責の念にかられ、自殺しようとして錦ヶ浦に行つたが、上から下を見ると恐ろしくなつて、右通信部に来た」ものと認めるのが相当であつて、事実上は右行為を「自首」と同じ程度に評価してもよいと考える。そしてその後の捜査段階における被告人の態度は、その罪を悔い改めたもののそれで非常に協力的であつたことが窺われるのみならず、当公判廷においても、「私の行為は被害者に済まない、済まないという言葉では済まされない、如何なる処分も甘んじて受ける」と述べ、その態度には並々ならぬものが看取され、その改悛の情はまことに著しいといつても過言ではない。
(ホ) 被告人に対する量刑は、被告人のため有利な情状はもち論、不利な情状も総べてこれを併せ観察したうえ、行うべきものであることは多言を要しないところである。そして本件犯行をめぐる諸情状について慎重にこれを検討して来たのであるが、本件犯行の動機、方法及び結果、被告人の反社会的危険な性格及び平素の行状、被害者側の感情並びに社会的影響などに着目すると、被告人の本件殺人の所為は極刑に値いするものといわねばならない。もつとも、被告人には前記(ハ)、(ニ)その他で被告人の生い立ち、境遇、遺伝的性格について認定した事実並びに犯行の偶発性、被害者洋二が一命をとりとめたこと及び遅きに失したとはいえ事実上自首し、改悛の情の著しいことが認められ且つ特に挙げないがそのほかにも有利な情状もあるので、これ等の情状が本件の量刑に当り占める地位についてこれを検討する必要があり、これを前記不利な情状と併せて慎重に考慮したが、これ等の事実は未だ以て右極刑を一等減ずるまでのものではないと考える。
よつて主文の如く判決する。
(裁判官 八島三郎 相沢正重 山本博文)